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#8533
TakaQ
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参加者

司馬史観の言葉を借りるなら
大陸の民族には見られない古来の武士にルーツを持つ日本人独特の精神性は
「名こそ惜しけれ」と「公の意識」なのではなかろうか

おおよそ要点書き出すと

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【「司馬遼太郎全講演」「この国のかたち」より】
日本という国はユニークだと思う。
これほどいろいろな人間が、いろいろなことを一生懸命やって過ごしてきた国はないのではなかろうか。
何にしても、日本人は働き者である。日本人はつねに緊張している。
理由は、いつもさまざまの公意識を背負っているため、と断定していい。
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で、司馬先生はこの問いに向き合った時、武士に着目したそうな

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【「峠」あとがきより】
武士という人間像は、日本人が生み出した、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。
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司馬先生が言うところの人間の芸術品たる武士が、日本人の奥底に何を刻み込んでいったのか、それを全国津々浦々を訪ねて思索を辿ってみたら、浮び上がってきたのは、明治時代を「奇跡」の近代化へと導いた武士の遺伝子というか、日本人の根底に流れる特有の倫理観、精神性と、新たに取材が許された未公開の手紙から日本人の意外な盲点も見えてきたよと。

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【「この国のかたち」編集者の堤尭氏いわく】
「日本はこのままでいいのかな、大丈夫なのかなと。日本を憂うところが多分にあった、多々あった人」
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その注目した武士の精神性が表れている、明治という時代を描いた代表作の一つに「坂の上の雲」があるが、明治維新後の日本人が一丸となって近代国家をつくっていく姿を描いている
「明治維新の奇跡」は驚くほど手間が掛かることを、驚くほどのスピードで全国一斉に実現したことだと司馬先生は考えていたとのこと
例えば学校教育の柱である小学校を僅か8年で全国各地に整備し、明治19年に近代産業の要である鉄の大量生産を実現、鉄道は30年余りで全国に7000kmという路線網を広げているが、この俄には信じられない急速な近代化は一部の政治家や実業家の力だけでなく、日本人一人ひとりの総力を結集したものであり、司馬先生が注目したのはその日本人たちの心根なのだそうな

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【「この国のかたち」より】
明治の政治主導による資本主義が形を成したのは、汚職しなかったからである。
明治の役人たちというのは、いまから考えても痛々しいほどに清潔だった。
明治の日本には、資本主義の興し手たちをみても、民衆をみても、また民権運動家をみても、公の意識が横溢しすぎていた。
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痛々しいほどの清廉さと国民全体に溢れる公の意識、こうした明治の日本人の高潔な精神性はどこからきたものなのか、そのルーツを武士という人々の中に見つけたが、それは1000年に及ぶ武士の歴史の中で、ある時代、ある場所に登場した武士に見ることができるそうな
毎年、鎌倉の鶴岡八幡宮に奉納される流鏑馬神事は、武士が初めて歴史の表舞台に登場した鎌倉時代、彼らの武芸向上のために始まった儀式だが、その坂東武士にルーツがあるとのこと

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【「街道をゆく」より】
鎌倉で語るべきものの第一は、武士たちの節義というものだろう。
ついでかれらの死についてのいさぎよさといっていい。
こればかりは、古今東西の歴史のなかで際立っている。
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司馬先生が潔いと注目した武士、実は彼らは農地を耕作する農民でありながら、土地を守るために武装した人々で、関東一円を指す坂東に一大勢力があったため坂東武士と呼ばれているが、今でも鎌倉で次々と見つかる坂東武士の亡骸には、頭蓋骨の至る所に刀の傷跡が残されており、農民でありながら勇猛果敢に戦い活躍した坂東武士たちの行動の元となった精神性に関心を抱いたそうで、その坂東武士の生き様を描いた能の演目に、司馬先生が終生愛した「鉢木」というのがある

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【「鉢木」より】
捨て人(貧相な旅人)のための鉢の木 切るとても よしや惜しからじと
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猛吹雪の寒い夜、貧しい坂東武士の家に突然旅人が宿を貸してくれとやって来て、見も知らぬ旅人であったが、困っている人を見過ごせないと自分が大事に育てていた盆栽「鉢の木」を切って暖をとらせたという演目
エエ話やw
司馬先生はこうした坂東武士の根底にある精神性に着目したのだという

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【「この国のかたち」より】
かれらは京の公家・社寺とはちがい、土着の倫理をもっていた。
「名こそ惜しけれ」はずかしいことをするな、という坂東武者の精神は、その後の日本の非貴族階層につよい影響をあたえ、いまも一部のすがすがしい日本人の中で生きている。
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祖先は坂東武士という800年前の鎌倉時代から流鏑馬神事を奉納してきた小笠原流、小笠原清基さんは「名こそ惜しけれ」(名を汚すような恥ずかしいことをするな)という精神を受け継いできたとのこと

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【「小笠原さん」いわく】
「武士は常に命を懸けていましたから、坂東武士の『名こそ惜しけれ』と近いと思うのですが、常に自己を律することではじめて他を大切にすることができるというのが流儀です」
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司馬先生は坂東武士たちにあった「名こそ惜しけれ」という精神性が、その後数百年にわたって受け継がれ、今の日本人の中にも息づいているとみたのだそうな
その「名こそ惜しけれ」のルーツとは何かについて、司馬先生は坂東武士の源流ともいうべき場所を訪ねている。
高知県の梼原町、小さな田んぼが階段状に広がる山あいの集落で、平安時代に農民たちが様々な場所からこの地に移り住み、苛酷な開墾を始めたが、実はこうした開拓農民こそ後の坂東武士の源流にあたる人たちだったという

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【「街道をゆく」より】
山の傾斜を掘りくずし、土をたたいて水平地をつくり、砕いた石で石垣をきずいて築城するほどの土木感覚と作業量の要るしごとだった。
私ども日本人一般の先祖のしごとをいまも眼前にみせてくれるのは、土佐の檮原の千枚田ではあるまいかと思う。
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なぜ彼らはこうした奥地で開拓を始めたのかというと、平安時代に社会を支配していたのは京都の公家たちであったが、律令制度のもと全ての土地は彼らのものとされ、庶民は重い税に苦しんでいたので、ひとたび飢饉が起こればそこはまさに生き地獄であり、平安時代末期はその地獄から逃れるために奥地に逃亡する農民が続々と現れ、その一部が梼原の開拓農民、公家の支配が及ばぬ奥地で自ら土地を切り開き、自立を始めたのだそうな

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【「街道をゆく」より】
これが律令制が土崩してゆく蟻の一穴になった。
時が経つにつれ、有力な開発人のなかから、武士といわれる者が勃興するのである。
要するに、かつて武士とよばれる者どもは、墾田の農場主のことだった。
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全国各地に散っていた彼らはやがて力をつけ始め、12世紀末に武器を手にある場所に集結したのが鎌倉であり、日本史上初の武士政権・鎌倉幕府が誕生したと

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【「この国のかたち」より】
日本史が中国や朝鮮の歴史とまったく似ない歴史をたどりはじめるのは、鎌倉幕府という、素朴なリアリズムをよりどころにする「百姓」の政権が誕生してからである。
私どもは、これを誇りにしたい。
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幕府を立ち上げるために坂東武士たちが鎌倉に集まったとき、彼らの中にあの「名こそ惜しけれ」の精神が芽生えたと司馬先生は考えたそうで、きっかけは幕府が褒美として彼らに渡した1枚の文書、坂東武士たちが開拓した土地を彼らのものだと認める安堵状だったとのこと

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【「街道をゆく」より】
律令制の土地制度という不条理なものから農地の所有をたしかなものにした。
その影響は、人の心にあらわれた。
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つまり司馬先生は、律令制の時代には決して持つことの許されなかった土地を、初めて自分のものとした喜びが、恩義のある人に決して恥ずかしいことをしないという「名こそ惜しけれ」の精神に繋がったとみたそうな

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【「司馬遼太郎全講演」より】
今後の日本は世界に対して、いろいろなアクションを起こしたり、リアクションを受けたりすることになる。
そのとき、「名こそ惜しけれ」とさえ思えばよい。
ヨーロッパで成立したキリスト教的な倫理体系に、このひとことで対抗できる。
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白人ザマー的に痺れますなw
その「名こそ惜しけれ」の大きな転換点が戦国時代で、鎌倉幕府の誕生から300年、武士の中には領地を広げ家臣と領民を抱える大名が出現し、こうした大名たちが激しい勢力争いを繰り広げるようになっていたが、この時代に兵力となるのは普段農耕をしている領民たちなので、合戦を勝ち抜き生き残っていくためには彼らから領主である大名や武将が信頼される必要があり、小田原に本拠を構え相模や伊豆一帯を支配した戦国大名の北条早雲は、領民と直に接する武士たちに向けて、「早雲寺殿廿一箇条」という領民たちの信頼を得るために武士はどう振る舞うべきか「名こそ惜しけれ」の精神をもった日々の心得を説く家訓をつくったとのこと

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【「この国のかたち」より】
早雲は伊豆一国を支配し、これを“領国化”した。
まことに独創的だった。
領民の面倒のいっさいを見るという支配の仕方だった。
そのかわり惣(村)の自治をおさえ、惣の若衆(若者)を領国の戦力として吸いあげ、これを山野に駆って早雲は関八州を支配した。
ここに、伊豆人にとって北条氏とその領国が、公になった。
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ここで司馬先生は、家訓が広がる中で北条の武士たちの間に在った「公の意識」が、「名こそ惜しけれ」の「恩義のある人のために」といものから、戦国という時代の中で「この領国のために」と変化していったことを指摘しており、司馬先生と親交の深かった憲法学者の樋口陽一氏は「公の意識」の誕生について司馬先生から聞いている。

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【「樋口さん」いわく】
「『名こそ惜しけれ』というのは、何か大事なものを各人がそれぞれにもっていて、それを持ち寄って『公』のものをつくる。ですから公意識との間には関連があるという言い方を越えて、それがなければ本当の意味での公意識が出てきようがない」
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家訓をつくり領国の支配を磐石にした北条早雲は他の戦国大名に先んじて強大な勢力を築いたが、その後、甲斐の武田や土佐の長宗我部など、各地で武士の精神をもたらす家訓や法令が次々とできており、戦国という時代の中で公の意識は全国の武士たちへと浸透していったという

冬、厳しい季節風が吹きつける秋田の沿岸地域に、新屋地区(秋田市)という日本海からの強風が引き起こす飛び砂で壊滅的な被害を受けてきた地域があるが、地元で今も英雄として語り継がれている江戸中期にこの地に生まれた秋田藩の藩士の栗田定之丞という人物がいる
藩からの収入は僅か15石の貧しい下級武士だったが、飛び砂の被害から地域を救うために延々80kmにわたって数百万本の松を植え、防風林をつくり上げる

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【「街道をゆく」より】
定之丞は、ただ一人で20里の海岸砂丘をなんとかしようと思った。
むろん、人手は要る
定之丞は、村々の庄屋や世話役を訪ねてまわり、「ただで働いてくれまいか」とたのんだ。
砂をとめて林にすれば、薪にもなり、堆肥にも役立つ
なによりもいのちのたねの田畑が砂にうずめられずにすむ。
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しかし防風林といっても、松が育って効果を発揮するのは15年以上も先のことであり、日々の生活に追われる人々は定之丞の呼び掛けに誰も耳を貸すことはなかったという

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【「街道をゆく」より】
頼む、といいつづけるのである。
そのさまが、子供がおんぶしてくれとだだでもこねるようだったから、「だだ之丞」とよばれたらしい。
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誰から相手にされなくても、定之丞は一人やり続け、松の苗が飛び砂で枯れてしまわないよう、激しい砂でも育つ植え方の研究に没頭し、浜辺の小屋に筵一つで泊り込み8年の間黙々と試行錯誤を続けたそうな。
何の見返りもないのに地域のために尽くそうとする定之丞の姿に、人々の意識が次第に変わり始め、当時の村の日記に村人たちが徐々に協力し始めた記録が記されている。
「家の主だけでなく、女性、子供、手伝いの者まで参加した」
「毎年春と秋に人々が植林に参加し、14年間でのべ7万人以上を数えた」
定之丞の姿に動かされた秋田の人々、地域のためにという「公の意識」が庶民の間にも広がっていった現れである

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【「街道をゆく」より】
栗田定之丞の人柄、境涯、そのよさというものは、江戸中期の家中の無論良いほうの典型といっていい。
江戸期の武士のほとんどは貧しかった。
おのれの境涯に堪えることと、富むことをねがわず、貧しさのなかに誇りを見出し、公に奉ずる気分がつよかった。
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そして幕末に、植民地化を視野に入れた欧米列強が迫り来るという日本全土を揺るがす危機が訪れると、全国の武士たちが次々と行動を起こし立ち上がる

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【「峠」あとがきより】
人はどう行動すれば美しいか、人はどう行動すれば公益のためになるかこの二つが、幕末人をつくりだしている。
幕末期に完成した武士という人間像は、日本人が生み出した、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでいえるように思える。
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そして時代は大きく動いて明治の近代化へ至るが、それまでに武士たちの中で脈々と伝えられ育まれ続けてきた「公の意識」が、広く庶民にまで根づいていたことを司馬先生は発見したが、その一つが全国隅々にまで急速に広がった郵便制度で、奈良市の茗荷郵便局の局長・松本陽一氏の先祖、江戸時代にお茶の農家だった松本家は、明治初頭に突然新政府から依頼を受け地区の郵便局を始めることになる。

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【「この国のかたち」より】
明治政府は、維新後わずか4年で、手品のようにあざやかに(郵便)制度を展開した。
手品のたねは全国の村々の名主のしかるべき者に特定郵便局をやらせたことによる。
(新政府は)かれらの名誉心を十分に刺激した。
まず、郵便事務が公務であることを説いた。
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江戸時代は農家だった茗荷郵便局の初代局長・松本甚内は、早急に近代国家建設をめざす新政府の思いを汲み、自ら積極的に資金を出して、自宅の一部を郵便局に改造したという

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【「松本陽一さん」いわく】
「こんな田舎でもこういう新しい政府に関われると、かなり心意気に感じて先祖はやったのかなと。苦になるというよりも、関われることに意気を感じてたんじゃないかなと思いますけどね」
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北海道から九州まで農民たちが自ら進んで我が家を改造し、郵便ネットワークは僅か4年で完成するが、こうして明治時代、庶民にまで根づいた「公の意識」によって奇跡の近代化が成し遂げられていったという